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本町二丁目・欄間彫刻の由来
本町二丁目・欄間彫刻の由来
本町二丁目・欄間彫刻の由来
 鎌倉中期(1250年頃)の名裁判官と謳われ、倹約が美徳とされた鎌倉武士の鏡として知られる青砥三郎左衛門尉藤綱(あおとさぶろうざえもんのじょうふじつな)は、五代執権北条時頼(ときより)につかえた。

 藤綱は、ある夜幕府に向かう途中、東勝寺(とうしょうじ)橋で滑川に十文を落としてしまった。そこで藤綱は松明(たいまつ)を五十文かけ買ってこさせ、多勢の家来を使い、十文を探し出した。

 この時、藤綱は「十文は少ないが、これを失えば天下の金を失う事になる。松明代として払った五十文は自分にとっては損だが、この五十文は人から人の手に渡ってなくならず、人のためになる。」と家来に語り財の大切さを説いた。

 この逸話を聞き、当初人々は無駄の骨頂と嘲り合ったが、藤綱の倹約の精神、本質を知ると、これぞ武人の心意気と世の人々は藤綱を崇め、後世に語り伝えた。

 1336年(延元元年)5月16日、楠正成は建武中興政府に謀反した足利尊氏と兵庫湊川(みなとがわ)にて戦うため、現在の大阪府三島郡島本町桜井に京都より兵を進めた。

 ここに、河内国より嫡子正行(11歳)を呼び、父正成と共に湊川に参戦したく血気逸る正行を諭し、後醍醐天皇への忠節と親子・一族郎党の孝養を説き、正行に天皇より賜わった宝刀を授け河内国に帰した。

 この親子の別れの場面は『太平記』では「桜井の宿の訣別」として次のように記されている。
 「正成、是を最後の合戦と思ひければ、嫡子正行が今年11歳にて供したりけるを、思う様有とて桜井の宿より河内へ返し遣すとて、庭訓を残しけるは云々」(巻16)  桜井の別れから9日後の5月25日、楠 正成は弟正季(まさすえ)等約700騎にて約十万の足利尊氏勢と「湊川の合戦」で戦い、楠兄弟は刺し違え戦死する。

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