保永堂版・東海道五拾三次
広重と東海道53次「吉原宿」

 昔から東海道は江戸と上方(京都)を結ぶ街道として、最も重要な街道だ。江戸時代も中頃になると、全国的に「地誌」への関心が高まり、国中の道路は整備され、観光ブームが訪れ、さらに十返舎一九の「東海道中膝栗毛」がベストセラーとなり、道中記やガイドブックが数多く出版されるようになった。
 天保3年(1832年)、「歌川広重」は幕府の一行に随伴して京に上り、その時の体験をもとに「保永堂版・東海道五拾三次」を作り上げた。53の宿場に始点(日本橋)と終点(京都)を加えた、合計55枚の「揃物」は東海道ブームの中で「広重」を一躍浮世絵界のスターにのし上げた。しかし、「広重」の描いた東海道の各図は単なる街道の案内図にはとどまらず、風景美を描きながらも、旅の楽しさや、宿場に住む人々の感情をしみじみと描き出している。
 「保永堂版・東海道五拾三次」の評判のよさに勢いを得た「広重」は、その後「行書東海道」、「隷書東海道」、「五拾三次名所図会(竪絵東海道)」 など、生涯の間に実に10数種類の東海道の絵を残すことになった。


保永堂版・東海道五拾三次

 「吉原宿」の東5町(約550m)程の「中吉原」から、西へ1町(約100m)の区間は「左富士」と呼ばれている。江戸から京に上る際、常に右手に見えるはずの富士山が、この区間だけS字状のカーブを描き、左の方に見えるためだ。
 この画には、3人の子供をのせた馬が描かれているが、この乗り方は伊勢参詣の道中で見られるもので「三宝荒神」といい、通常は中央に大人、左右に子供が乗るという。

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